最近、尊敬してきたある方から、以前ほど刺激を受けなくなった気がしています。
好きな人であることに変わりはありません。
話を聞けば、もちろん学ぶこともある。
でも以前のように、一つひとつの言葉に圧倒されることが少なくなりました。
最初は、少し寂しい気もしました。
自分の感度が鈍くなったのだろうか。
学ぶ姿勢が弱くなったのだろうか。
でも、もう一つの見方もできることに気づきました。
相手が変わったのではなく、自分の立っている場所が変わったのかもしれない。
今日は、その話です。
目次
憧れとの距離が、変わってきた
以前は、尊敬する人と話すと、たくさんのものを持ち帰っていました。
考え方。
仕事への向き合い方。
生き方。
「こんなふうに考えるのか」と驚き、自分にはないものを見つける。
だから、会うたびに刺激を受けました。
最近、その感覚が少し変わってきました。
相手の話を聞きながら、「分かる」と思うことが増えたのです。
もちろん、相手から学ぶものがなくなったわけではありません。
追いついたと断言できるものでもない。
ただ、以前は「教わる側」として聞いていた話を、少しずつ自分の考えと照らし合わせながら聞けるようになりました。
尊敬する人の言葉が、絶対的な答えではなくなってきた。
「この人ならどう考えるか」だけではなく、「僕ならどう考えるか」が生まれてきた。
刺激が減ったように感じた理由は、そこにあるのかもしれません。
憧れと、感嘆は違う
考えているうちに、もう一つ気づきました。
世の中には、「どうしたらこんなことができるのだろう」と思うような人がいます。
僕からすると、まるで異星人です。
もちろん、すごいと思います。
でも不思議なことに、「その人のようになりたい」とは限りません。
一方で、僕が長く憧れてきたのは、もっと身近に感じられる人たちでした。
大切なものを大切にしながら、自分のやりたいことにも向き合っている。
完璧ではない。
でも、その人なりの生き方を持っている。
そんな人を見ると、「いつか自分も、こんなふうに生きられたら」と思います。
そこで、僕の中では少し言葉が分かれました。
手の届かない能力への驚きは、感嘆。自分もそこへ近づきたいと思う気持ちは、憧れ。
だから憧れとは、永遠に見上げ続けることではないのかもしれません。
その人から学び、少しずつ自分のものにしていく。
そうすれば、いつか距離が縮まっていくのは自然なことです。
次は、自分の判断軸で歩いてみる
これまで、尊敬する人たちから多くのことを学んできました。
その時間があったからこそ、今の自分があります。
だから、これからも学ぶことはやめません。
ただ、少しだけフェーズが変わってきたように感じています。
誰かの背中を追いかけるだけではなく、自分なら、どうするのか。
それを試してみたい。
これまで教わってきたことを、自分の仕事や暮らしの中で使ってみる。
うまくいくこともあれば、間違えることもあると思います。
その結果を、また自分で考える。
そうやって初めて、誰かから借りていた考え方が、自分自身の判断軸になっていくのだと思います。
憧れが薄れることは、少し寂しいことなのかもしれません。
でも、それは相手の価値が下がったからではない。
自分の中に、その人から受け取ったものが残っているから。
そう考えると、憧れとの距離が変わることも、一つの成長なのだと思います。
いつまでも背中を追い続けるのではなく、ときには自分の足で歩いてみる。
今は、そんなことを試してみたいと思っています。
Key Takeaways
- 尊敬する人から受ける刺激の変化は、自分の中に判断軸が育ってきたサインであることがある。
- 「すごい」と感じる感嘆と、「自分も近づきたい」と思う憧れは、似ているようで少し違う。
- 学んだことが自分の中に蓄積されたら、誰かの答えを追うだけでなく、「自分ならどうするか」を試してみる。
あなたへの問い
以前ほど、その人の言葉に圧倒されなくなった。
そんな相手が、あなたにもいるでしょうか。
もしそうなら、相手から学ぶものがなくなったと考える前に、一度だけ自分に問いかけてみてください。
「この人ならどうするか」ではなく、今の自分ならどうするだろう。
その答えを試してみることが、次の学びの始まりなのかもしれません。